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息苦しい「見えない視線」の正体

〜情報化社会の生きづらさを考える〜


「なんだか生きづらい」。そう感じている人は少なくないでしょう。情報技術の飛躍的な進歩は、私たちの生活を豊かにする一方で、社会全体を「監視」の目にさらし、知らず知らずのうちに息苦しさを募らせています。かつての牧歌的な監視社会とは一線を画す、現代のデジタル監視社会がもたらす生きづらさの正体に迫ります。



■匿名性が生む「集団的糾弾」の恐怖


インターネットは、本来、個人の自由な意見表明を促進するツールとして発展してきました。しかし、日本においてはその匿名性が、時に負の側面を増幅させています。欧米ほど個人主義が根付かず、実名での自己主張を避ける傾向が強かった日本では、2ちゃんねるのような匿名掲示板が独自の発展を遂げました。この匿名性が、建設的な議論を阻害し、過激な批判や集団的な糾弾を招きやすい土壌となってしまったのです。


SNSの普及は、この傾向に拍車をかけました。LINEやTwitter(現X)といったプラットフォームは、子どもから大人まで、誰もが簡単に情報発信できる場を提供します。しかし、それゆえに、ちょっとしたミスや不用意な発言が瞬く間に拡散され、「炎上」という名の社会的制裁を受けるリスクを孕んでいます。一度レッテルを貼られてしまえば、そのイメージはインターネット上に半永久的に残り、個人の社会生活に深刻な影響を及ぼすことさえあります。これは、科学技術の進歩がもたらした「弊害」の一つと言えるでしょう。



■いつから私たちは「監視」され始めたのか?


私たちが暮らす社会が「監視社会」へと変貌を遂げたのは、一朝一夕のことではありません。日本においては、1990年代末から2000年代初頭が大きな転換点とされています。


1999年の住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)導入や通信傍受法の成立は、国家による個人情報収集や監視の法整備が進んだことを示しています。さらに、2000年代以降は「犯罪の凶悪化」や「治安悪化」への社会不安が高まり、防犯カメラの設置や子どもの見守り技術の導入が加速するなど、監視技術が私たちの生活空間に深く浸透していきました。




■「顔が見える監視」から「見えない常時監視」へ


かつて地域コミュニティにおける監視は、隣人同士の「顔が見える」人間関係を基盤としていました。おせっかいな近所の目が、時に息苦しさを感じさせながらも、一定のセーフティネットとして機能していた側面もあります。しかし、現代のインターネット時代の監視は、その性質が大きく異なります。デジタル技術による「匿名・広域・常時」の監視が特徴であり、監視の主体は政府や企業だけでなく、不特定多数のユーザーにまで広がっています。


私たちは、スマートフォンの位置情報やインターネットの閲覧履歴、SNSの投稿など、意識しないうちに膨大な個人情報を日々発信しています。これらの情報はビッグデータとして収集・分析され、私たちの行動や嗜好、さらには思想までもが可視化されつつあります。このような状況下では、個人の自由やプライバシーへの影響はより深刻であり、私たちは常に「見えない視線」に晒されているような息苦しさを感じずにはいられません。



■監視社会の息苦しさを乗り越えるために


情報化社会における監視の強化は、セキュリティの向上や効率化といったメリットも確かに存在します。しかし、それと引き換えに失われつつある個人の自由や多様性は、私たちが真に豊かな社会を築く上で看過できない課題です。


この息苦しい監視社会を乗り越えるためには、まず私たち一人ひとりが、情報の収集・拡散における倫理観とリテラシーを高めることが不可欠です。安易な情報拡散に加担せず、批判的思考力を持って情報に接する姿勢が求められます。また、社会全体で、個人の尊厳とプライバシーを尊重する意識を醸成し、過度な監視に歯止めをかけるための議論を深めていく必要があります。


技術の進歩は、常に光と影を併せ持ちます。情報化社会の恩恵を享受しつつ、その弊害を最小限に抑え、個人の自由と多様性が尊重される社会を築くことは、私たち現代人に課せられた喫緊の課題と言えるでしょう。


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©2023 合同会社ラパンサービス

Écrit par Hideo Yamamoto.

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